人としての「権利」??
「いままでの社会の仕組みと人々の気持ちが「競争の癖」を終らせる事が出来ずに争っている。
他を利用してお金の階段を登る事をやめられない。
これが過剰生産と失業者,自然破壊を生み出していると考えている。・・・・」
おい!そんな事はいいから、
オレ障害者なんだけど、この前ブログでオレのこと差別しただろ
人権問題だ。
???
いや、あなたを差別したつもりも否定したつもりもありませんよ。
「オレは」差別的発言だと受け取ったんだ、謝れよ
そのように捉えられるとは・・・
もしそうなら慎重さを欠く見解に見えたかもしれませんが、
全くそういうつもりはありませんでしたし、真意も全く違いますので
ご理解ください。
ご理解?? こっちは傷ついたと言ってるんだ
ほら、謝れよ 慎重さに欠けたと認めてるんだろ
ですから・・それはあなたの誤解で、
誤解もなにも、相手が傷ついたと言ってるんだから謝るのは当然だろ?!
これだけの騒ぎにもなってる。あんたの真意はどうでもいい、「傷ついた」と言っているのだ!
どう責任とってくれるんだ? さあ、まずは謝れよ
…私は騒がせたつもりは全くありません。
あ、それと・・・私もある意味「傷つきっぱなし」なんだけど・・・(汗)
あんたの心は知らん!
◆阿久根市長に謝罪求める会、人権団体などが結成
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100201-OYT1T01125.htm?from=y10
子どもは社会の宝と大人はいうが・・・・
この横峯式がにわかに注目を集めているというのは聞いていたが、
あらためて自分なりに調べてみた。
最大の目的は、人間の才能である「心の力・学ぶ力・体の力」を付けさせ、
子供たちが生まれつき持っている「可能性」を、最大限に引き出し、
将来、世のため人のために役立てる、そんな立派な人間に育ってもらいたい!ということだ。
『「すべての子どもが天才である。」という考えのもと、
できることはおもしろい、おもしろいから練習する、練習すると上手になる
上手になると楽しい そして次の段階へ行きたくなる
この繰り返しで一流に育つ
すべては1から始まり毎日の積み上げで
10年でだれでも一流になれる』(公式サイトより)
http://www.youtube.com/watch?v=K2tiz0hLRf0&feature=player_embedded
http://www.youtube.com/watch?v=r3SXAyZuRD0&feature=related
この動画を見た限りの印象ではあるが、保育園児とは思えぬ身体能力の高さや
読み書き、算数、絶対音感などあらゆる才能が開花していることもさることながら、
そこにはスパルタ的な特殊な指導は全くなく、園児みずからが楽しく自分に挑戦していることや、
また落ちこぼれる園児がいない点に、より驚いてしまう。
卒園後が一番気になるところだが、もし、この「みずからが楽しく」あらゆる学びに励むことが継続できた場合は、
それぞれの個性や能力を最大限に発揮しながら成長するのだろう。
その考え方の本質は、何よりもまず「園」ではなく、「親」が持つべきものであるだろう。
さて、このヨコミネ式教育法の4つの柱のひとつに「競争させる」というのがある。
「させる」というと強引な感じもするが、この時期の子供は特に、もともと自然と競争したがるので、
向上心を育むためのひとつとしてそこを刺激するとよいとの事。
ところが、この「競争」という言葉に目をつけて、市長を批判する声があったりする。
成人式では、市長は「競争」を否定的に語っていたのに、矛盾ではないか?との突っ込み。
市長は成人式では、
『今の社会は地獄に落ちた餓鬼たちの様に、人を踏み台にしてひたすら上る競争しているのと同じです。』・・・と、
今の拝金主義(マネーゲーム)とも呼べる社会システムの
「他を蹴落としてでも」勝ちに行く競争主義の事を否定していたのは記憶に新しい。
また小学校の入学式の挨拶ではこう話している。
競うことと争うことを混同する「競争」という言葉があります。
私はよく考えずに使われている「競争」という言葉が人の心に深い傷をつけていると感じています。
そもそも、争いによって社会が豊かになるという考えは間違いです。
「競争」ではなく励ますという文字を使った「競励」とすべきです。
私には憧れがあります。それは、地位や財産がなくても争わず、励ましあい支えあう、生きることを喜び楽しめる社会です。
そこで皆さんにお願いがあります。「競争」を「競励」と読み替えてください。競励ならば勝っても負けても成功です。
ヨコミネ式の競争はまさに、他を意識しながら共に自己の向上心につなげる「競励」である。
ちょっと前後の文章を読めば、人を踏み台にした「争い」とは180度違うのは誰にでもわかる。
なのに、この矛盾をどう説明するのだ!という呆れたツッコミがある。
最初から「バッシングありき」ではないのか。その材料を探しているから、「お!これだ!」とばかり、
「競争」という2文字のみに、近視眼的に思わず反応してしまう。
悪意あるマスコミ記者の「言葉狩り」も全く同じだろう。
せっかくなので、議員時代のある日のブログを最後に引用したい。
■2007/05/09 (水) 教育、その真の目的教育とは
学校で習ったすべてのことを
忘れてしまった後に、
自分の中に残るものをいう。
そして、その力を
社会が直面する諸問題の解決に役立たせるべく、
みずから考え行動できる
人間をつくること。
それが教育の目的である。(アインシュタイン)
勉強に対する考え方や姿勢を、根本的に間違ってきたという気がする。
私は勉強を競争の道具ととらえて来た。競争の方が勉強の道具であることに気付かなかった。
よく考えると、社会が直面する問題の解決に必要な力は人々の総合力である。
強制されること無く、個人が能力、才能を十分に発揮出来る環境が望ましい。
■2008/05/23 (金) PTA新聞原稿
PTA会長挨拶 竹原信一
昨年度に引き続き会長をさせて頂く事を感謝しています。子供達に関わる事は実に楽しいものです。
特に低学年の子供の話す言葉や行動は新鮮で挑戦的です。
「ごくせん」という人気番組があります。この中で生徒は仲間づくりのために学校に通っているのですが
勉強と個性の発揮が対極に置かれ、個性発揮の方法をヘアスタイルや乱れた服装にしています。
このことからも今の学校教育に根本的な問題があるのを感じます。
学問は本来、個性を表現し、共感を得る道です。今の教育体制は勉強をほぼ個人競争の道具にしてしまっています。
実社会の問題を解決するのにはほとんど無限の道があります。
問題を出す人と出された人の間には明確な区別はありません。
テーマを与える側の人間性が一番の問題である事も少なくありません。
作為的な、正解が予定された問題ばかりでは現実感が無く、勉強嫌いになるのも無理がないという気さえします。
東京大学学生の、約三割が失業者になってしまう不安を抱えているという調査結果がありました。
日本の学校教育は根本的な問題に目を向けてこなかったようです。
私達自身が問題の一部であり、子供達は問題を共有する仲間であるという事を忘れてはならないと考えます。
市長は真剣に社会や子供たちの未来のことを考えているのは間違いない。
その事でもっと現実的に議論も深めたいはずだ。できれば市民の一人ひとりと。
それに対し、いい大人が何を小手先で「争って」いるのだろうか。
※オマケ
これもヨコミネ式だろうか?(笑)
http://www.youtube.com/watch?v=QW5RZEj2xCg
改革とは何だろう? 覚醒とは何だろう?
いやはや、一ヶ月ぶりの更新となる。
まともにパソコンに向かえる日が数えるほどしかできない。
ブログ・BBSの管理人としてはもはや失格だろうが、お許しいただきたい。
さて、年末年始も「お騒がせ阿久根市長」というムードだったが、
果たして騒いでいたのは誰か?
市長か?市民か?
マスコミである。
市長の言動を重箱の隅をつつくように針小棒大に取り上げ、
騒ぎを「作り出して」いながら、「またお騒がせか」という論調につなげるマッチポンプ手法である。
確かに市長の特異かつ強烈な個性は、曲げやすくもあり、ネタにもなりやすいだろう。
しかし世間(市民)の評価が単なる変わり者やお騒がせ市長でしかなければ、
次なる選挙で洗礼を受けるか、もしくは適当な時期にリコールされるか、
いずれにしても、市民の総意として判断されるだけのことである。
私自身も「なぜ、そこで、その発言(記述)なのだろう・・」と市長の真意が理解できず、
首を傾げてしまうことがないわけではない。
だが、大手メディアが悪意をもって執拗に取り上げる異常さ、バランスの悪さの方が先に来るのである。
謝罪しろ!辞任しろ!という声を煽るように叩く裏には、
信用失墜を狙った政治的意図があるのは言うまでもないだろう。
逆にいうと、市長の存在や主張が、どうしても都合が悪い輩や全国的組織があることの証左でもある。
(個々人の生理的ともいえる好き嫌いもあるだろうが、本質的にはどうでもよい)
一方、同じく信用失墜を狙った騒動としては、連日集中報道されている小沢氏(関連団体)の政治資金規正法や
斡旋収賄罪にまつわる疑惑問題もそうだろう。
私自身は鳩山・小沢民主党に関する懸念諸材料を払拭できずにいるが、それでも今回の騒動は、
旧勢力が番犬(地検特捜部)とメディアを使って政権破壊を狙っているようにしか見えない。
小沢事件での検察のマスコミ操作の方向は、再び西松建設とダム建設のための斡旋収賄罪に注目させたいらしい。
西松事件にせよ、ダム事件にせよ、斡旋収賄罪が成立する犯罪構成要件は、
「特定の企業からその企業に特定の利益をもたらすことを約束する交換条件として
特定の金品等を贈与し実際に、その特定の企業に約束した利益をもたらした」という事実が必要だ。
これらの証拠が全部そろわなければ、たとえ起訴したとしても公判は維持できない。
つまり裁判では無罪になる、ということだ。
検察が実際の斡旋収賄罪をめざしているなら無謀にも見えるが、
もし検察の目的が、「小沢一郎の逮捕!」というイベントのためだけならば、この執念は理解しやすいのではないか。
つまり、裁判で無罪と判っていても、無論理・感情優位の日本社会では
「 逮捕された! 」という事実だけで政治家生命が終わるからだ。
それだけメディアと権力のタッグは影響力が絶大であるといえるし、
一般国民大多数の目はいとも簡単に欺けるだろう。
いずれにしても、我々国民が夢中になって、あるいは興味本位で見入っているその劇場に
どういう筋書き・思惑があるにせよ、庶民の為の政治やその延長に庶民の幸せがあるとは私には思えない。
かれこれ何十年もの間に幾度となく、スキャンダル疑惑、汚職疑惑・・
おかしな国策逮捕や謀略逮捕や暗殺まで、もろもろの騒動が繰り返されてきたが、
核の部分、真の部分は何一つ変わらず、今では奈落の底に向かう日本の姿がある。
竹原市長のブログでも裏権力の話題が以前より出ているが、戦前戦後から続く裏権力の争いにすぎないのである。
政党をコントロールしている派閥やヤクザ、外国勢マフィア、多国籍金融資本などは一体となり、利害を共にしながら日本を統治している。
その真の姿が大手メディアで語られることはまずない。
民主主義の主人公であるはずの大多数の国民の、その頭の中にある「政治」というものは、
学校教育を通して教えられた「表向きの民主的制度」とマスコミから伝えられる「表向きな劇」の中にしか存在しない。
そんなマスコミにお金を払ってまで存続させ、自ら洗脳される国民が圧倒的多数なのだ。
大多数の国民にとっては、裏社会なんて見当も想像もつかない別世界であり、
主導している裏の要人・組織自体は、市民・国民のための改革なんて起こす気すらないのだから、
愚民になりはてた国民が覚醒しない限り、永遠に改革も革命も起こらないだろう。
しかし改革とはどういう状態なのだろうか? 庶民の覚醒とはどういうものなのだろうか?
公務員の給与がしぶしぶ削減されたり、国家財政がいくらか改善されることが改革なのか?
裏社会のことや真実に気づく、あるいは近づくことが覚醒なのか?
公務員や国家権力が「悪」で、庶民は「正義」なのか?
明確な答えや定義も分からないが、個人的には、それらはそのプロセスの一部であって、
その後が極めて重要なのではないかと思う。
公務員も政治家も民間人も関係なく、そんな社会を共に構成している我々一人ひとりの利己的な生き様と価値観。
ここが変わって始めて覚醒といえるのではないだろうか。だから真の改革というのは難しいなんてものではないだろうと思う。
すんなりイメージできるものではないが、それでも真の改革、革命がいずれ起こるとしたら、
それは特定のリーダーやある誰かが起こすものではない。
今の社会システムや価値観がいよいよ行き詰まり、限界に達した時に、想像を絶する痛みを伴いながら、
竹原市長も言うところの「この社会に対する責任」を、
大多数の国民が否応なしに、初めて気づかされるようなものになるのではないのだろうか。
「我が事」や「モノ、金」に執着している者ほど、ダメージも大きくならざるを得ないだろう。
私なんぞが言うと、胡散臭いキレイ事にしかならず、はたまたピンボケしてしまうのだが、
そんな必然的な大きな流れの中にあるような気がしている。
私たちは、竹原市長の人間性がどうだ、手法がどうだ。あるいは、あの政治家はどうだ今の情勢はどうだと
外の世界ばかりに兎角気を取られがちでもある。
誰かが、社会が、私の人生を豊かにしてくれるのではないかという依存や期待の連続でもある。
しかし最も重要なのは、そのような外の世界を「鏡」や「フィルター」としながらも、
利己的な自分の中にこそ焦点をあてるべきなのだろう。
そういう意味では、竹原信一という男が織り成す阿久根劇場やそこから見える世界も
それぞれが「自分」を映し出す鏡にしかならないのだ。
深いのは社会をとりまく裏世界の闇だけではない。 嘘をついてでも、誤魔化してでも
今日も明日も自分や家族の保身しか眼中にない多くの大衆の心の闇のほうがもっと深いのではないだろうか?
実にそこは、表裏一体として繋がっているのではないのだろうか?
脈絡もなく、とり止めもない内容になってしまったが、ボンヤリとながらもなぜかそんな風に感じていて、
コメント欄に執拗に書き残される批判や罵倒にも、どこか言いようのない虚しさを感じてしまう今日この頃だ。
(前エントリのコメント150件の後半殆どは約1名の名無しさんなのだが・・・)
阿久根市長からのメッセージより
http://www.data-max.co.jp/2009/12/16_155621.html
竹原・阿久根市長からのメッセージ より書き起こし。
障害者の方は特別という感覚は私の中には全然ないんですね。
人間の命というか「存在」というのは、一体だという感覚が本当にあります。
人間が生まれたら、体力的にも優れた方、普通の方、そうでない方、いろいろいる訳ですが、
それが一体となって「社会」を創ってるわけですね。
優秀な人を生み出す力というのは、実はそうでない人の「存在」によって支えられている。
だから皆がそういう「役割」というのが必ずあるわけですから、
優秀だから楽な人生を送っていいとか・・あるいはその逆もあるでしょうけど、
そういうものじゃない。全く違うと・・。
権利とかいうのも、そういう表現でやっちゃいけない話だと思うんですよ。
障害をもってるから惨めだとか何とか・・一切思う必要はないんですから。
支えられて当たり前とか・・言ってしまってもダメなんでしょうけど・・
「やるべく働きがある」と。その「役割」を果たすためにこの世に生をもったと。
これまでに数限りない沢山の方が亡くなってきた。
その亡くなる方の働きによって私たちは存在しているというのが本当のところだと思います。
生きている中でも、例えば食べる物。他の者の死によって私たちは支えられている。
「生」にも「死」にも、そして生きる中での存在の位置によっても働きがある。
そういう風に思っております。差別とか何とか・・次元が違う..私の中ではありえない。全くないです。
羨む心と差別する心・・。おそらく一体だと思いますね。どちらも私にはないです。
皆さんもそういう風に思う必要なんかなくて、永い永い人類の歴史の中で、
非常に短いけれども、この生きる時間を得られたということを大事にするべきだと思います。
感謝し、大事にする。その有難みが必要だと思います。
ただ、自分たちが生きる社会をどのように創るかというのは、流れに任せるだけではいけない。
特に現代では、チューブに繋げれば、植物人間ででも、何十年も生かしてしまう。
逆に生まれる部分も人工授精によって作り出すことができる。
下手をすれば、人間と動物の合いの子でさえ造れてしまう。
ほとんど神の領域といいますか、そういった所に踏みこんでしまってるんですね。技術を暴走させている。
これでは苦しい人生を送る人を作り出してしまう。
そういうのをコントロールしていかなくちゃいけないし、
例えばお金の問題にしても、とにかく厳しいところにでも、チューブに繋いででもお金をつぎ込むべきだ!と
毎月100万も200万もかけて生かす、それが人道的だ!と・・・。
そうかなあ・・・と。
その為に最低以下の暮らしをしている人を増やしてしまう。
そういったタブーを作らずに、全部を引き受ける社会にならないといけない。
特に政治に関わる人たちは、それを避けちゃいけない。
今の状態というのは、何か言うとマスコミや被害者みたいな形で全体で叩いてしまう。
「それは政治家としては言ってはいけない言葉だ!」と・・。
政治家としては言ってはいけないという事なんて「あってはいけない」のです。
全部を引き受ける責任を果たしていかなくてはならない。そういう風に思います。
政治家が「人気商売」だという風に捉えると、(タブーとか)そういうことが起こりうるかも知れないですけど。
システムが偽物になればなるほど、そういう政治家を選ぶようになっているのかも知れませんね・・。
私はそういうのに与しないと言いますか、やるべき事をやる・・。そうしない事がつらくてやっている訳ですから。
今後もそのやり方を変えるつもりはありません。
植物人間や脳死の場合の延命治療に対する考え方は、これまた賛否両論だろう。
竹原氏自身のそれも、一個人の主張(問題提議)であり、それが絶対だとか押し付ける姿勢はないと思われる。
何より、現実を直視し社会全体で考えるべき大切な問題を惰性や流れに任せたままで本当にいいのか?という事であり、その上での問題喚起だろう。
なので、若輩者の私見にすぎないが、私自身も感じる事をそのまま書いてみたい。
意識も全くなく、回復の見込みがない患者を人工的に装置に繋いで心臓を動かさせているだけの状態をどう見るか。
それが人である…それもまた人生である・・と言うには、あまりにも違和感がある。
家族が本当にそう望むのであれば、まだ問題も少ないないのだろうが、(家族の“自己満足”である場合もあるだろう)
家族が「自然死」を望む場合の延命治療中止は、今度は担当医が法的に「殺人罪」などに問われる恐れがある。
延命治療の継続は病院側の利益になっているのは事実だが、
現場の担当医には強いストレスにもになっているという一面もある。
また、その後の家族の経済的、心理的負担を、もちろん国は肩代わりしてくれるわけでもない。
延命治療数年で、結局患者は助からず、医療費で莫大な借金を抱えてしまい、一家心中や家庭崩壊といったケースや、
精神的に追い詰められたあげくの傷害(殺人)事件や自殺なども少なくはない。
昨年だったか、厚生労働省が行なった国民調査では、約8割の人が「回復の見込みのない延命治療は望まない」と答えていた。
にも関わらず、「安楽死」「尊厳死」に関しては、法整備が殆ど進まない、進められない。
そこには、ただ「命の切捨て」的発想でしか考えが及ばない貧困な思考や全体的なムードがあるのではないだろうか。
意図的にそう誘導している人たちや団体などもあるのだが。
命の尊厳という「教義」を無条件に重視するあまり、肝心なその「質」は軽視されていると思える。
死を待つだけの機械に繋がれた人工的ともいえる命と、これからも生き続けていかなければならない命と
どちらを最優先させるべきかという問題は、いずれにしても国民的合意を形成すべき重要な問題だと思う。
「医療費が年々圧迫されている」という理由で、様々な制度が改悪され、
身体的にも経済的にも苦しむ人々が増加してもなお、「仕方ない」と切り捨てる風潮を見ていると、
全体としてはあまりにもバランスが悪いと言わざるを得ない。
やはり、あらゆる批判を覚悟の上でも、声をあげる政治家が本物である。
差別問題・・・
市長のブログでの最先端医療に関する記述が騒がれている。
普段から如何にして奴を墜落させるか・・と模索している方々にとっては、
突っ込みやすいネタだったのだろう。
そのブログの発信から随分と時間がたつが、様々な仕込みや連携がようやく完了し、
誰かが火をつけたという流れか。
当記事全文を読み返しても、言葉の選び方には違和感が残るものの、
伝えようとしている文面や奥にある真意からは
個々の弱者に対する侮辱や差別意識などは全く感じない。
社会全体のバランスから見た高度医療に対する負の面への問題定義である。
最先端医療では莫大な金額をかけ、生命と献身的に向かっている反面
全体でみれば、その出生予後を真に幸福に導けるほど、実際には社会は成熟していない。
過酷な状況を次から次へと生み出しているのもまた事実であり、
個々の命の尊厳とはまた別の次元で向き合うべき問題でもある。
市長の言う「精神的にも健康な子供達が増えれば障害を持った子供達、体の弱った高齢者を
より良く支える社会を作ることができる。高度医療にかけるお金の一部で人口を増やす事ができる。
先ずは健康な人々が多く居なければ心を支える社会作りもできはしない。」
というのは大切な視点でもあると感じる。
このアンバランスな社会がどんどん加速していく背景には、
多くの医療従事者の「純粋な善意」と、それを率いるごく一部の者による「ビジネス」が絡んでいる。
人権運動、平和運動、環境運動などもその構図は同じと言える。
人々の善意が盾にもなるため、中途半端な批判はタブーにもなっている。政治家もみなどこか及び腰だ。
差別はよくない、命は尊いというのは当り前のことであるが、
ことさら問題を強調し、意識させていく事で、差別問題はより深くなっていく。
運動そのものが最も当事者を差別しているようにも見える。
市長のこれまでの主張をみれば、全体(公益)を意識する中で、
政策も弱者への支援にこそ最も力が入っている。そこは驚くほどブレていない。
今回の発言も、市長は普段から健常者と障害者の区別も差別も全くないからこそ、
さらに高い視点から見た、社会全体に対する問題として投げかけることができただけではないのだろうか?
その一方、私は直接見てないのだが、
あるテレビ局が阿久根市の某養護施設へTVカメラと共に「わざわざ」出向き、
障害を抱えた入所者に「わざわざ」ブログ記事(ポイントとなる記述)を見せて、
「この発言はひどい!」というコメントを引き出したと聞いた。
さぞ傷つかれたことだろうと思う。
このデリカシーのなさが、すでに差別意識からくる行動ではないのだろうか。
揚足取りのプロとはいえ、行きすぎではないかと思えるのだが。
テーマとしては重く、難しい問題ではあるが、
市長が今回の物議を意識していなかったとすれば、迂闊な表現だったことは間違いないだろう。
多くの人が実際は同じような感覚で冷静に見つめているのではないかと思う。
※現代医療の在り方については、様々な疑念を抱えていた私ですが、
恥ずかしながら、実は先月より、ある病院にやむを得ず入院しています。
走り廻る主治医(勤務医)やスタッフに大変お世話になり、
純粋な善意や温かさに囲まれながら、複雑な心境で過ごしています。
なかなか更新できずに申し訳ありません。




